山手線の駒込駅を降りてすぐの、下町情緒あふれるさつき通りを歩くと、ひときわ目立つ立派な「立呑」と書かれた提灯。しかし、店はカフェかと思うような洒落た雰囲気で、酒場にしては珍しい自動ドアから入ると、カウンターではご主人の佐藤寛さんと晴美さん夫婦が笑顔で迎えてくれる。早速、焼酎ハイボールをお願いすると「こちら前金になっておりまして……」と、ご主人。この「立呑ひろし」はキャッシュオン方式で、注文ごとにお金を払うシステムなのだが、まずは常連さんと乾杯を交わさないと話は始まらない。会社帰りの男性から女性一人のお客まで、幅広い常連さんと杯を掲げ、最初の一品をお願いすることに。
「鬼平の玉子焼きなんてどうですかね」と、すすめられた一皿は、かつおだし、醤油、砂糖で味付けした玉子に、刻んだ青ネギを加え、素早くふわっと焼き上げたもの。「うん美味しいしね、愛があるね」「出汁が効いてる。バッチリです」と二人を唸らせた料理は、晴美さんの古くからの友達、貴戸こと子さんによるもの。彩り豊かな家庭料理が得意で“この味に惹かれて”というお客さんも多い。
夫妻がお店を始めたのは8年前。もともとご主人の寛さんはロカビリーバンドのベーシストで、50年前に晴美さんと結婚。その後、居酒屋などを経営する会社に勤めた後、ここ駒込に店を開いた。お互い60歳を超えてからの出発。特に客商売がほぼ初めてという晴美さんは、戸惑うことが多かったという。「団体でお客さんが来ると、計算なんてできないですよ。500円の方もいれば、250円の方もいる。だから“頭のいい方いらっしゃいませんか”って(笑)」。お客さんに支えられながらの船出だったという。
続いてアツアツの「揚げ出し豆腐」を、ハフハフいただきながら、さらに店を始めた時の事を聞くと「まぁ、なんとかなるんじゃないかと思って……」と、ご主人。そこに“とんでもない!”といった勢いで晴美さんが割って入る。「もう(この人は)楽天家! なんとかなんてならないの、この世の中は。客は全然入らないし」。ここで、店の応援団を自負する常連さんが、当時を語ってくれた。「500円玉を渡して“一回来て!”って。店に入ってもらわないと、良さが分からないからさ。“ヤダったら、もうこなくていい”ってお客さんを入れたんだ」。きたろうさんが「そのお金は誰が?」と訊くと「私ですよ。応援団だもん」と、当然のように言う常連さん。これほど強い人情で結ばれた店は、そうは無い。
最後の一品は春の足音が聞こえて来そうな、山菜の天ぷら盛り合わせ。こごみにふきのとう、うどに菜の花。西島さんときたろうさんは「うーん、このちょっと苦味があるのがたまらんのよね」「大人しか食べられないよ」と、季節を慈しむように味わう。西島さんが、晴美さんへの感謝の気持ちを訊くと「もちろん、あります」と答える寛さん。しかし、店での夫婦喧嘩はしょっちゅうで、常連さんには周知のこと。「お客さんの前で暴言を吐くんですよ。“馬鹿野郎!”って、私に。8年の間に、泣いて三回帰りましたよ」と愚痴る晴美さん。そこで、きたろうさんが「“馬鹿野郎”を“愛してる”って置き換えればいいんじゃない?」とアドバイス。これに納得した晴美さんの顔が、パッと明るくなる。この人柄がまた、お客さんを惹きつけるのだろう。「常連さんに、いいお言葉をいただいたんです。“毎日(この店で)飽きないんですか?”って訊いたら、“僕にとって、ここはお仕事をした後のご褒美なんですよ”って。いいお客様に恵まれたって、重々感謝してます。この店を作ったのは、私たちじゃないんですよ、お客様が作ってくれたんです」。酒と同じく、人でも酔わせる。まさにそんな一軒だ。