台東区の谷中、三崎坂は三遊亭円朝の「怪談牡丹灯籠」の舞台にもなった坂。そこから路地裏に入り、たどり着いたのは普通の民家を改装した趣ある一軒「五十蔵」。“隠れ家酒場”という言葉が、これほど似合う店もそうない。谷中に店を開いて14年のこの酒場を切り盛りするのは、女将の飯島志津子さん。そして調理場を担当するのは、女将の甥っ子、煦蒹ト太さん。常連さん達と焼酎ハイボールで乾杯したあと、まず訊いたのが「五十蔵」の読み方だ。「“いすくら”と読みます。ロシア語で、火花とかスパークとか、そういう意味なんですけど、それを当て字で」と女将さん。店名の意味が腑に落ちたところで、今度はオススメ料理を胃の腑に収めたい。
「まずはお刺身を」と、翔太さんが「タコの酢〆」「アオリイカ焼き霜造り」「関アジのたたき」を一皿づつ出してくれる。刺身の表面が乾かないように、という心遣いも嬉しいが、その一品一品に細かな仕事が施してある。丁寧な酢〆で旨味が口に広がるタコ。「いい香りがする。シャキシャキで美味しいですね。ものすごく歯ざわりがいい」と西島さんが褒めるアオリイカに、「これは新鮮だね」と、きたろうさんが唸る関アジ。“和食は材料が8割9割だと思っている”という翔太さん。20歳という若さで調理場を任された翔太さんだが、開業当時は苦労も多かったという。「小僧がね、築地に行ってもいいものを売ってくれないんですよ。“触るんじゃねぇ”って怒られて」。思うような材料が使えるようになるまで何年もかかったという。
「次は、会津からアスパラガスのいいのが入ってます。紫は生で召し上がっていただいて、ホワイトは蒸します」と翔太さん。まさに今が旬のアスパラガス。紫のアスパラガスはアクが少なく、西島さん曰く「シャキシャキで、爽やか」。ホワイトアスパラガスは重量感たっぷりの立派なもので、これまた絶品。素材を活かすシンプルな調理法が、これほど贅沢な味わいを生むことに、一同感激しきり。
女将が谷中で店を開くまでには歴史がある。「私が29歳の時、池袋でこの名前で店をやっていたんですよ。最初はコーヒー屋さんがいいと思っていたんだけど、妹たちが反対して。みんなお酒が好きだったから、それで一番下の妹と酒場を始めたの」。女将は37歳で一度お店を閉め、一般企業に就職。26年後、定年退職を機に実家を改装し、今度は次女の佑子さんと、その息子・翔太さんの3人で、ここ谷中に「五十蔵」を再開。「14年前に再開した時は、まだ池袋の常連さんが、まだまだ元気でしたしね」と女将は笑う。
次の料理は「鹿肉の薄切り焼き」。ジビエと聞いて大喜びの西島さんが、鹿肉に乗っているものを訊くと「山わさびを刻んだもの。それと青唐辛子です」と翔太さん。「最高!山わさびと青唐辛子で、相当パンチが効いてますね」と、初めて食べる味と食感、そしてお酒との相性の良さを褒める。さらに西島さんを喜ばせたのが最後の一品「鯛とトリ貝のしゃぶしゃぶ」。トリ貝をしゃぶしゃぶでいただくという珍しさもあるが、それを薬味など加えずに、あくまで素材のうまさで勝負するところがまた潔い。「これは素材に絶対の自信がないとできないですね。あぁ美味しい」「お腹いっぱいでも、これは入るね」と、2人の箸は止まらない。
伯母である女将と甥っ子の翔太さん、その人間関係を訊くと「母親とはね、よく喧嘩になるんですよ。伯母と母も喧嘩をしますけど、伯母と私は喧嘩をしたことないです」と翔太さん。「可愛いよ、妹の息子だもん。かわいくて、かわいくて」とは女将さん。親子ほど親密でもなく、女将と料理人ほど離れてもいない。その実にいい塩梅な関係が、この店の居心地をさらに良くしているようだ。