かつては東海道の第一の宿場として栄えた東京・北品川にある、風情たっぷりの酒場「金時」が今回の店。昭和12年から80年続くこの老舗酒場では、厨房で大将の長谷川俊夫さんが腕をふるい、二代目女将で妻のいつ子さんが店を切り盛りする。まずは焼酎ハイボールで常連さんと乾杯して、乾いた喉を潤し、最初のオススメをお願いすると「じゃあ、お刺身から」と大将。登場したのは、升のような器に美しく重ねられた5種の魚。「一番上は貴重な生の本マグロ。中トロからトロの部分です。お客さんがすぐ食べたいという時は、味の強いものから入った方が落ち着くんです」という大将の解説に、「なるほど、これは上から順番に食べろということね。うまいねぇマグロ!」と、きたろうさん。ある有名なお寿司屋さんと同じところから仕入れているマグロをはじめ、カンパチ、サーモンなど、どの魚も実に美味しい。
次は「手羽の塩焼き」。素材はこだわりの宮崎地鶏で、女将が「下町の北京ダック」と命名した自慢の一品。お行儀にかまわず、手でつかんで食べた西島さん。「美味しい! こんな皮の手羽先、無いですよ」と唸った食感は、外はパリッと、中ジューシー。「下町の北京ダック」の異名にも納得だ。ここできたろうさんが、店のあちこちに据えられたスピーカーに気づく。「なんでこんなにいっぱい?」と訊くと「秋葉原の電気屋さんに勤めていて、音楽も好きだったもんで」と大将。じゃあ、ちょっと聞かせてよとお願いすると、ディック・ミネの「ダイナ」が、なんと8セットものスピーカーから流れ始める。大将が電気店をやめ、暖簾を受け継いだのは昭和51年、29歳の時。「私は6人兄弟の一番下で、油断してたわけですよ。それが、とりあえずやってくれってことで(笑)。親父には迷惑ばかりかけてたからね」。そうして名店の暖簾は、今に受け継がれているのだ。
次の「肉豆腐」にも、こだわりがいっぱい。「同じ食材を使っても勝ち目はないですから、うちは食材にこだわってみよう」と、A4ランクの牛肉と鎌倉の名店から仕入れた豆腐を使用。肉の脂と醤油で照りっとした肉豆腐は、もはやすき焼き。それが500円と聞いて思わず“嘘でしょ?”と、驚くきたろうさん。「ちょっと味が甘いでしょ、これが労働者の方が多い下町の特徴で」という大将だが、これまでメニューの原価計算をしたことがなく、女将にはいつも怒られているという。
そんな女将が大将と出会ったのは41年前。OLをしていたいつ子さんが、友達から「おじさんの店に行くと、美味しいものが食べられるよ」と誘われたのがきっかけだった。「(この人と結婚したら)毎日美味しいものが食べられる」と思い、出会いからわずか3カ月で結婚に至るが……。「こんなはずじゃなかった。お店が終わると毎晩口喧嘩で。ある晩、明け方まで口喧嘩して、うちを出てふらふら歩いていたら、朝早くに散歩するお義母さんと偶然会って、不満を言ったわけ。そしたら“分かった”って。“ただ実家のお母さんには愚痴をこぼさないで、楽しい話をしてくれ。心配されるから。その代わりあんたの不満は私が全部聞いて、俊夫に言ってあげるから”って。それで、このお義母さんならついていけると思った」という。それから年月は流れ、今や大将が“100%、奥さんがいたからやってこれた”と素直に言えるほど夫婦で支えあい、働いてきた。
最後の一品は「とまとピザ」。きたろうさんに「似合わないよ」と言われると、「若い頃に、初めてピザを食べた時の衝撃が忘れられなくて」と照れる大将。味のポイントは甘みの強いアメーラトマトと、たっぷりのチーズ。「これは確かに、シンプルでうまいわ」と、きたろうさん。素材選びに心を配る大将は、こうも言う「酒場に来た時、お客さんは心を許してくれます。そんなお客さんの心は、(私にとって)食材なんです。そんな心を美味しくしてあげたいんです。心が豊かになるのが、酒場という場所じゃないかと」。お店に来た人の心を美味しくする、その腕前に長けていたからこそ、愛され続ける一軒なのだ。