今回訪れたのは東京港区芝浦の、落ち着いた雰囲気の酒場「すたんど割烹 い奈本」。創業50周年を迎える店を切り盛りするのは、二代目の稲本実さん。そして三代目の圭吾さんがカウンターに立つ。まずはいつものように、常連さんと今宵の出会いに乾杯! そして最初の料理をいただくことに。「じゃあ、まぐろなんですけども、脳天という希少部位を」と大将。脳天といっても脳みそではない。どんな大きなまぐろでも、一尾から二つしか取れない頭部の身で「料理を目で味わうなら、これはめっちゃうまいですね。目でわかるよね、目で」と、きたろうさんが唸るほど美しい。一口食べて「これは大トロと赤身が混ざった旨さ。意外にトロ〜っと脂がありますね、」、「こんなに美味しい部位が、まだマグロにあったんだ」と、きたろうさんも西島さんも大絶賛。
「い奈本」は、芝浦という街の歴史に深い縁がある。「芝浦は花柳界、色街だったんです。うちは芸者の置屋で、お袋もおばあちゃんもみんな芸者です」。店には先代(大将の母)の千夜子さんが、若菊という名前で座敷に出ていた頃の美しい写真が掲げてある。「シングルマザーですから、親一人子一人で厳しかったです。親父もいたんでしょうけど、知らないんです。花柳界ってそういうところ。それが当たり前です」。戦後、花柳界が斜陽になり、千夜子さんが41歳になった昭和43年、置き屋として使っていた自宅を改装し「い奈本」を開業した。「お袋は、どんなに忙しくてもカウンターに座って飲んでて、お客さんが来るとちょっと喋って。で、9時を過ぎると銀座に行っちゃうんです。好きで行っちゃうんです。銀座でもバーをやっていてね」と、大将は笑う。当時を知る常連さんは「明るくて、いい感じだったねぇ」「芝浦小町って呼ばれてね」と、目を細める。
次のおすすめは「自家製のつくねと白レバーのたれ焼き」。焼き鳥かと思えば、串には刺されていない。タレの照りがうまそうな白レバーは半生で、口の中でフワーッと濃厚な旨味が広がる。つくねを頬張った西島さんは「このコリコリとタレ、合うなぁ。またレバーの時と印象が変わりますね」と満足そう。大将が料理の道に進んだきっかけを訊くと、「大学2年の時に、店にいた親方が辞めることになって、お袋が悩んでいたんで、じゃあやろうかな」と始めたという。喜ぶ姿を見せなかったという千夜子さんだが、「母ひとり子ひとりだったら、嬉しかっただろう」と、きたろうさんが思いをはせる。
次の一品は旬の桜エビを使った「揚げ桜えびとアボガドの胡麻サラダ」。さっくり揚げた桜えびの香ばしさに、アボガドのトロッとした食感の緩急がつき、実に美味しい。これを作り上げた三代目は、小学生の頃、店を継ぐと卒業アルバムに書いたほど強い意志を持って料理の道に進んだ。大将が嬉しそうに「カウンターで“飲んでりゃいいよ”って言うんですよ」と笑う。三代目は「それが夢ですね。カウンターに自分が立って、親父がお客さんと飲んで。まるで昔のおばあちゃんみたいにね、そういう感じになるのが夢です」と語る。先のサラダをはじめ「とうもろこしの天ぷら(1,000円・税込)」など、自慢のメニューも増えているが、まだ大将に学ぶことも多いと言う。「親父と(お客さんとの)“間”ですね。刺身を作りながら、お客様を必ず見てるんですよね」という。「気配り、目配りだよね。目が動くんだよ、お客さんの方に」と、きたろうさんも感心する。
締めの一品をお願いすると「どこの店にもあるんですけど、うちのはちょっと変わってるんです」と、いい色の煮込みが登場。「中に何か入ってますよ」と微笑む大将に、「どうせ卵じゃない?」と、きたろうさん。すると西島さんが「私が大好きなもの、ご飯! ご飯が入ってる。最高! 味付けが結構甘辛の煮詰めてる感じ。最高じゃないですか」と大喜び。最後に“ご主人にとっての酒場とは?”を訊くと「一日をリフレッシュするところだと思います。“いらっしゃいませ”っていうのは、“一日ご苦労様です”。“ありがとうございます”は、“明日も頑張ってください”という意味だと思うんです」。そんな思いがこもった言葉を受けて店を出る足取りは、きっと軽いにちがいない。