東京新宿にある寄席「新宿 末廣亭」から目と鼻の先、「薩摩おごじょ」が今回の酒場。店に入るとご主人の赤羽潤さんと奥様の康予さんが「おさいじゃったもんせ(いらっしゃいませ)」と出迎えてくれる。鹿児島の知覧(薩摩半島の南部中央)の生まれですというご主人に「知覧なんか知(ち)らん」と、きたろうさんのダジャレも快調。焼酎ハイボールで常連さんと今宵の出会いに乾杯し、「おごじょ(女性)」「だれやめ(乾杯)」などお国言葉を教えてもらいつつ、最初のおつまみ「つけあげ」をいただくことに。つけあげとはさつま揚げのことで、こちらの自家製つけあげは、人参入りとチーズ入りの2種類。「うまいわ。酎ハイに合うね」「魚の味がめちゃくちゃするんですね。揚げたてであったかいのが嬉しい!」と、きたろうさんと西島さんの顔が早くもうっとり。
ご主人は先代の店主である母と離れ、2歳から高校まで、鹿児島県知覧町(現・南九州市)で祖母の鳥濱トメさんに育てられた。その地は第二次世界大戦末期、陸軍の飛行場があったところで、400名以上の特攻隊員が飛び立っていった。トメさんが営む「富屋食堂」は軍指定で、出撃前の特攻隊員のために自腹で食べたいものを食べさせ、見送ったという。「僕の母は、当時女学生で特攻隊員の方々からすごく可愛がってもらったんです。戦後、その特攻隊員の生き残られた方々が、東京の母の自宅に集まっていたんです。一升瓶片手に10人、15人と。みんなの気持ちが分かるから追い返すこともできず、困っちゃって、おばあちゃんに電話をかけたら“私は出撃した方の面倒をみた。あなたは生き残った方の面倒をみなさい”と。それじゃあと、48年前にこの店を始めたんですよ」。店のメニューや料理は、トメさんが母の礼子さんに手ほどきをし、ご主人もその味を一切変えていない。つまり、特攻隊員が味わった鳥濱トメさんの味を今に受け継いでいる。
次の一品は薩摩名物の地鶏の刺身。色鮮やかで少々肉厚の地鶏肉を、鹿児島の甘いお醤油でいただく。「噛めば噛むほど味が出ます」というご主人の言葉どおり「旨味がどんどん出てくるし、弾力にびっくりしますね」と西島さん。ここで、ご主人が東京に来た理由を訊くと「音楽が好きで、就職先が歌舞伎町のディスコだったんですよ。1年ぐらいウィエターをして、それからDJに憧れてですね、今度はDJを目指して師匠の元で1年2年修行して独り立ち。もう20年ぐらいDJをやってましたから、歌舞伎町のディスコは全部働きましたね」と言う。しかし39歳の時、母の病をきっかけにお店を継ぐ決意をした。「18歳から家を出て、いい加減な人生を歩んで来たんですが、母がガンで最初は店を畳もうと思ったんですけど、お袋が自分の身を削って続けてきた店なんでね。鳥濱トメ、それを受け継いだ礼子。これで終わらせていいのかと思った時に、覚悟を決めました。亡くなる2日前にお袋の手を握って“薩摩おごじょと、お袋の思いを受け継いでやっていくから”と言ったら、手にお袋の涙がポトポト落ちてきて“本当にありがとう”って。親孝行の“お”の字もしてこなかったし、死んでからの親孝行なんてダメなんですけど、僕にはそれしかできないです」とご主人は語る。
次にご主人が「よく染みてる肉がありますので」と出してくれたのは、3日間煮込んだという「とんこつ(角煮)」。「そーっと食べないと、崩れちゃいます」というご主人の言うとおり、お箸で切れる柔らかさ。鹿児島名物の黒豚のホロホロ具合に感激し、最後の〆は「さつま汁」。「鹿児島の麦味噌でもって作ったお味噌汁です。熱いので火傷しないでくださいね」と出されたさつま汁を、フーフーすするきたろうさんと西島さん。「麦味噌って本当に甘いというか、コクがあるというか、丸い味がしますね」と西島さん。お腹に沁みわたる味に、トメさんの愛情を感じる。ご主人は酒場を「みんなの気持ちが集まるところ」だという。守りたいもののため、たったひとつしかない命を散らした特攻隊員。そして戦後の日本を働いて立て直した人たち。そうした気持ちを支えたこの店の料理に、今一度、平和であることのありがたさを感じる一軒だ。