小さな赤提灯に、店先から大きく枝を張り出すモチノキ。入り口は木造りの障子戸。今にもその戸から、小さな髷を結った酒場の爺さんが出てきそうな「根津の甚八」が今回のお店。根津甚八といえば、真田十勇士の一人で真田幸村の影武者として壮烈な戦いを繰り広げた人物だ。ガタピシと引き戸を開け、店に入ると髷の爺さんではなく、ジーパンを履いた女将・名上けえ子さんが出迎えてくれる。焼酎ハイボールをふたつお願いし、きたろうさんと西島さんはしっぽり乾杯。「渋いね。いや〜落ち着くなぁ。なんか新撰組が秘密の会合をするような雰囲気」と、きたろうさんが言うのも不思議ではない。築110年の建物で、柱や格子は建てられた当時のまま。女将が店を始めたのは22年前だが「その前も居酒屋で“根津の甚八”という屋号だったそうです。“建物を直さず、屋号もそのままで”という条件で不動産屋さんから借りたんですが、それも不動産屋さんの優しさだったかも。直して綺麗にしていたら、きっとお客さんも来なかったと思います。以前のお客さんが“提灯が点いてるよ”、“幽霊かな?”って、それでまた口コミが広がって」と笑う。
店の雰囲気をひと通り楽しんでから、最初の一品「クリームチーズのたまりしょう油漬け」をいただくことに。鹿児島の甘みのある醤油に漬けたクリームチーズは濃厚で、酒のあてにピッタリ。和洋折衷のこの一品は女将のオリジナルだが、メニュー作りには、お客さんのアイデアを活かすことも多いという。続いての一品は、鶏のむね肉を紅茶で煮込み、一晩漬け込んだのち、酢と醤油で味付けた「とり紅茶煮」。「あら美味しそう。紅茶の色が付いてる。でも、紅茶の味がすごくするわけではないんですね」と、美味しそうに頬張る西島さん。素朴だが、ひねりの効いた女将の料理はどれもハズレがない。
建てられた当時は民家で、間取りは今もそのまま。そのためカウンターと奥の厨房を行き来するのに、あいだにある座敷に上がったり下りたりと大変な女将。注文を受けるたびに移動し、素早く調理。そうやって21年もの間、たった一人で店を切り盛りしてきた。店を始めるまで、料理の勉強や修行経験もなかったという。「それまでデパートで派遣の仕事していました。経営者になりたくて、酒場をやろうって。でも始めてみると大変でした。8キロ痩せました。会話もできないし、何をどうしたらいいか(笑)。3.11の震災後から、店も暇になってきて、お客さんの質問に少しずつ答えているうちに、ようやく話せるようになれました」という。焼酎ハイボールの焼酎の量を間違えたり、ところどころで可愛らしい失敗をする女将には、なんとなく初々しさがあり、思わず“応援しなくちゃ”という気にさせられる。
次のオススメは「鯖のくんせいサラダ」。8時間かけて燻製された鯖は、その香りはもちろん、旨味が凝縮されて実に美味しい「見事に鯖の味がするね、身も全然パサパサしてないし」と、きたろうさんは満足げ。続いて女将は「メニューにないんですけど、お客さんに試食していただいているので……」と、ネギ味噌入り栃尾の厚揚げ(料金未定)を出してくれる。ピリッと辛みを効かせたネギ味噌が抜群なのだが、裏面にちょっと……。「おしゃべりしているうちに焦げちゃって。よくお客さんに“なにか匂いがしますよ”って、言われるんです」と女将が申し訳なさそうに笑う。
最後の一品は「鴨鍋」。ネギと鴨肉だけのシンプルな鍋で、それがこの店の雰囲気と相まって、まるで時代劇の登場人物になったような気にさせる。「あ〜、鴨の味が出てるな。鍋はね、こういう出汁を吸った野菜がうまいね」と、きたろうさんと西島さんの体を芯から温める。「もう年齢的に疲れてきましたけど、“もうやめたい”って言ったら、お客さんが7人も8人もお客さんを連れてきて“やめないで”って一生懸命協力してくれる。お客さんが嬉しそうに“お店を続けてくれてありがとう”って。この“ありがとう”という言葉が嬉しいですね。本当は、私が言わなきゃいけないのに」。まるで落語の人情噺のような人の絆が、この根津の一軒に息づいている。