京王井の頭線、渋谷駅から一駅目。神泉駅を南口から降りて、風情漂う小道を1分ほど歩いたところにある酒場「串焼き 千羽」。店は、包丁を握るご主人の酒井健次さんと、接客担当の女将・貞子さん、そして店を継ぐ予定の娘の青奈さんの3人による、家族経営の一軒だ。居心地の良さを満喫しながら、まずは恒例の“今宵に乾杯!”。しっかり濃い目の焼酎ハイボールをあおり、最初に串焼きをいただくことに。「千羽焼きという、つくねの香草焼きがあるんですよ。あと、千羽タレ焼き。それを召し上がってください」と女将。最初に出てきた「千羽焼き」は緑色で、香草が3種類入っているという。その香草を当てるという趣向なのだが、二人は分からずじまい。「周りはしっかり焼かれているけれど、中は柔らかくて。香ばしさがスゴイです」と西島さん。次はプリプリの肉と、オリジナルのタレの匂いがたまらない「千羽タレ焼き」。きたろうさん曰く「普通の焼き鳥屋さんのタレじゃ、全然ないね」とか。鶏のもも肉の歯ごたえを大切にするため、注文を受けてから切って刺すという、ご主人の丁寧な仕事ぶりも立派だ。
ご主人が、店を始めたのは40歳。脱サラしての挑戦だった。「お母さんが、“よそで飲んでないで、うちでやんなさい”って」と笑うご主人。女将と日本各地の美味しいものを食べ歩いた舌と知識を生かし、酒場を開業。「最初は、店が何日続くか疑問だったけどね」というが、もう40年。「ここはね、アンコールで始めたんですよ。一度は“定年退職しよう”って辞めたんだけど、お客さんが“辞めないで”って」という女将。ご主人が65歳になり一度は引退したが、3ヵ月後に場所を移して再開したという、実にお客さんに恵まれた、幸せな店なのだ。「また、お母さんがやれって言ったの?」と、きたろうさんが訊くと「そうですね」と、ご主人。“お母さんの方が、主導権を握っている”と主張するきたろうさんと、“そんなことはない”と言い張る女将。しかし娘の青奈さんは「お母さんの方が強いです。お父さんは厳しいところもありますけど、穏やかで……」と証言。家族経営の、絶妙なバランスはこうやって守られてきたのだろう。
次のオススメは、ご主人考案の「タンスライス」。ボイルした豚のタンを薄く切り、ニンニクやネギ、唐辛子などの薬味で食べる。「豚のタンって、食べたことあるかな?」と言っていたきたろうさんだが、一口食べて「あっ、ニンニクがネギと合うね、これは!」と、お気に入りの様子。西島さんも「美味しい。ちょうどいい噛みごたえですね。ニンニクとネギと、この唐辛子の辛味が、最高のつまみですね」と、大満足。続いては北海道の名物「じゃが塩辛」。ホクホクのじゃが芋を切って皿いっぱいに並べ、中心にたっぷりの塩辛。「ひまわりの花みたい。おしゃれな出し方だね」とは、きたろうさん。北海道生まれの西島さんは「結構シャッキリとした、爽やかな感じのじゃが芋ですね。これはもう鉄板メニュー」とベタ褒め。
最後に“これだけは食べて帰れのメニュー”をお願いすると、牛スジを使ったカレー風味の煮込みが登場。少し赤みのある煮込みだが、見た目はカレーっぽくない。女将が「これはカレーじゃなくて、あくまでカレー“風味”なんです」という。一口食べた、きたろうさんは「あー、うまい。カレー風味っていう言葉の意味が分かった。こりゃ風味だよね」。しっかり辛さと、スパイスの味を出しつつ、酒のアテとしてうまい。それがカレー“風味”たる所以だ。きたろうさんが、店の将来を任された青奈さんに「これ、作り方覚えた?」と訊くと、「今、少しずつ覚えています」とのこと。これまで介護職や食堂などで働いてきた彼女にとって、店をちゃんと受け継ぎ、やっていけるのか、不安は多い。しかし、ご主人は「来年、僕らも80歳ですから、本当に引退する予定だったんですよ。それが跡を継ぎたいって……」と、実に嬉しそう。何歳になろうが、求められて現役を続けられるというのは幸せな事。そしてまた、先人が築いたものを受け継げる事も幸せ。そんな二つの幸せが交差する一軒だ。