「えっ、なにこれ。図書館?」。看板には九州郷土料理とある、東京港区新橋の酒場「有薫酒蔵」だが、店内の通路は膨大な数のファイルで埋まっている。「これは日本中の高校の寄せ書きノートです。もう3000冊を超えました」と説明してくれたのは、女将の松永洋子さん。創業41年目を迎えるこの店は、ご主人の協和(ともかず)さんが作る郷土料理と、この高校寄せ書きノートが人気の一軒。常連さんと「今宵に乾杯!」と杯を交わし、まずは最初のおつまみをいただくことに。「お刺身で一番人気があるのが、キビナゴなんです」という女将の言葉に、「九州だね。キタキタ!」と嬉しそうなきたろうさん。出てきたキビナゴの刺身は、縞模様も美しく盛り付けられた一皿。「インスタ映えするんです。特に外人さんは、写真撮られる方が多いです」というのも納得。九州から毎日直送されるキビナゴは、身も厚めで味が濃い。まさに箸が止まらぬうまさだ。
ご主人と女将の二人で始めたこのお店。出会いは55年前に遡る。当時、銀座で母親と小さな酒場を営んでいたご主人は、お客さんとしてやってきた洋子さんに一目惚れ。「嫁さんにきてもらうまで、3年かかりました」とはご主人。結婚と同時に、OLから酒場の若女将として歩みだした。「女将さんで、お母さんで、お嫁さんで……、4足も5足も草鞋を履いて大変でしたが、今考えると、それがあるから今幸せなんです」と語る。
次のオススメは「黒豚の串焼き」。これまた九州といえば、のメニューだが「あら、串に角煮が刺さっているみたい」と西島さんが言うように、その照り具合が抜群に食欲をそそる。「黒豚というのは、脂分が美味しい」と聞いて頬張ると、きたろうさんが「アツアツを噛めば噛むほど、味がどんどん出てくるね」と満足げ。
話は、もう一つの名物「高校の寄せ書きノート」へ。今から31年前、一人の常連さんが、母校への思いをノートに書いたことから始まったというが、現在では全国にある4938校ある高校のうち、3177校分のノートがあるという。ノートの書き込みや貼られた名刺を見て仕事のつながりができたり、口をきいたこともない憧れの先輩の、その後の仕事をここで知ったり、ということがよくあるという。「ノートを見たい方は、紙に書いていただいて、私たちが探してくるというシステムになっています。お客さんがノートを探すためにお立ちになると、私たちの仕事ができませんからね」と女将。きたろうさんは千葉県、西島さんは北海道の母校の寄せ書きノートを発見。西島さんは、生活指導の名物先生についての寄せ書きに感動し、きたろうさんは「土地の匂いがしてくるね」と実に感慨深そう。「お客さんから“女将さん、ありがとうね”って言われると、やめられないのよね。それで31年」と、笑う女将の笑顔は本当に嬉しそうだ。
つづいて、見た目がグロテスクな有明海の名産「ワラスボの干物(620円・税別)」。ポキンと折って、見た目に反したいい香りを楽しみながら、ちょっとづつ噛んで染み出す味を楽しむ酒のアテ。「珍味というより、素直にこりゃうまいね。九州おそるべしだね。馬刺しとかもあるの」と、きたろうさん。「ありますよ(熊本の馬刺し・1,340円・税別)。手作りのさつま揚げ(720円・税別)もありますよ。手作りで揚げたてだから、美味しいですよ」と女将が言うと「九州で初めてさつま揚げを食べた時、世の中にこんなに美味しいものがあるのかと思って。東京で食べるさつま揚げと、あまりにも違って驚いた記憶がある」と、うまいもの話が止まらない。
“最後にこれだけは食べて帰れ”のメニューをお願いすると、登場したのは「博多茶漬け」。「博多では、ご飯にアジとかイカを乗せるんですけど、今日はヒラマサで。このヒラマサの鮮度が良くて美味しいんです。ぜひおつゆを掛けて食べてみてください」と、勧められた出汁つゆがまた絶品! 「九州らしい、皮も骨も内臓の味も全部するような、しっかり目の出汁が美味しい!」と、感激する西島さん。生臭さとは無縁の、新鮮なヒラマサのお刺身と出汁の旨味で、お茶漬けがスルッとお腹に収まっていく。最後に「酒場とは人生だ」と語った女将。遠き青春の思い出話と、目の前のうまい酒と料理。その相性の良さを実感する一軒がここにある。