東京都中央区、八丁堀はオフィスとマンションの街。「こんなところに酒場があるの?って感じだよね。ところが、ここを曲がると……、ほら、ポツンと一軒」と、きたろうさんの前には「御食事処 いち」の灯が。厨房に立つのは二代目ご主人、武田芳明さん。そして女将のゆかりさんが、店を切り盛りする。いつものように焼酎ハイボールで、常連さんと“今宵に乾杯!”。早速、最初のオススメをお願いすると「刺身の盛り合わせです。仕入れによって中身は変わるんですけど、マグロは必ず入るようにしています。原価はかなり高くて、100%くらいです」という。まさにおもてなしのための一品。「トロがすごいんだよ。口の中が“トロー!”って感じだよ」、「シマアジは、ちょっと寝かせているのかな? 熟した感じのシマアジが美味しい!」と、二人は新鮮な刺身を満喫。
八丁堀の町工場で働いていた父が、酒場を開いたのが51歳の時。バブルがはじけ、リストラの退職金を元手にした再出発。「一念発起して、この店で“いちから出直し”の“いち”ですね」と、店名の由来を語るご主人。店を手伝うことになった今のご主人は、当時22歳。「父は酒ばっかり飲んでいて、母と僕で料理を作っていました。16、17歳からイタリア料理店や、もんじゃ屋さんで働いていて、アルバイトから社員になって、フランス料理店で働いていた辺りで、“居酒屋やるから辞めなさい”って母親に引き抜かれたんです」と笑う。その両親も亡くなり、今は妻のゆかりさんと二人で暖簾を守っている。「(通っていた)中学校がこの辺で、築地市場の関係者(の子息)が多かったので、市場に知り合いがいっぱいいるんです。その人たちに支えられて、どうにかこうにかって感じです」と言うご主人。きたろうさんの隣に座る常連さんも、築地場外市場の老舗鳥肉卸専門店で働いている。もはや「癒着関係ですから(笑)」という間柄で、そこから仕入れた大山どりのささみを使った名物料理が「鳥ささみフライ(680円・税別)」。180℃の油で2〜3分揚げたささみは、刺身で食べられる新鮮なもので、中心はほんのり桜色。この揚げ方も抜群だ!
次は「銀ダラの西京焼き」。母から教わったというこの一品は「長野県の善光寺味噌を使っているんです」という。「これ立派ですよ。最高に美味しい。とっても美味しい!」と、西島さんの三段階の褒め言葉が飛び出したところで、きたろうさんが「暖簾に御食事処って書いてあるでしょう? なんで酒場にしないの?」と訊くと、「店を始めた時は、定食もやっていて、母親と父親が他界して夜だけの営業になった。また、ランチができるようになったらいいなと思っていますから、暖簾は変えません」という。それを聞いて「やっぱり母親が作ったものを、残したいんだよ」と、きたろうさん。実は店の場所を決めたのも母親だった。「ここは縁起のいい土地だったみたいです。もともと印刷屋さんがあって、とても儲かってビルを建てたそうです」とご主人。「それに、うちにはバイトが二人いるんですけど、一人はこの秋に結婚して……。うちのバイトの女の子は、どんどん結婚するんですよ。1年に4組も! この土地は多分、パワースポットなんです」と笑う。
続いては「ハムカツ」。出てきたハムカツを見て、「イメージと違うねぇ」と唸ったのはきたろうさん。分厚くて食べ応えも十分。チーズが入っていて、その塩分があるのでソースをつけなくても美味い!こうしたバラエティ豊かな料理は、八丁堀の常連さんに教えてもらい、それに応えることで料理の幅が広がったという。「お客さんのために何ができるか考えて、ちゃんと行動する。毎日市場に行くとか、見えないところの努力を普通に続けることが大切なんです」と語る。
最後のメニューは「鴨鍋」。通常なら鴨の胸肉を使うところ、先の鳥肉卸専門店で働く友人のアドバイスで、もも肉を使っている。「ちょっと脂身が多いんですけど、鍋にはもってこいなんです。ジューシーで美味しい」と自信たっぷりの鍋は、その肉質はもちろん、出汁が抜群に美味しい。最後に、酒場に一番必要なのは、居心地の良さだと語ったご主人。疲れて愚痴をため込んだ常連さんが、この土地のパワーと、美味しいつまみのパワーと、店のスタッフのパワーをもらって、明日に充電する。たしかにこの店は、最高のパワースポットに違いない。