「ボール!」
「あいよ」
これで通じるのはご常連の証拠。おやじさんがグラスに炭酸をどぼどぼと。レモンスライスを入れ、一升瓶に入った液体をなみなみと注ぐ。氷なしだが炭酸も一升瓶もぎんぎんに冷えているから、口にさわやか。甘みを抑えた焼酎ハイボールがうまい。一杯二七〇円。
京成本線・堀切菖蒲園駅からすぐの大衆酒場「喜楽」はこんな常連客でいっぱいだ。
「みんな、このボールが命でよ。これを飲みにくるんだ。店によって味が違うから、ここの客はよそには行かないね」
とご常連の一人が言う。
細長いコの字型のカウンター内に元ミス堀切のおかみさん、テーブル席におやじさんが陣取って、お客さんたちとの会話がはずむ。
「まるでご近所さん同士の井戸端会議だね。どこで猫の子が生まれたかもわかってるみたい」
とハムカツをかじりながら大竹画伯。実際は意外に千葉方面に住む人も多く、
帰りに途中下車して寄って行く。それがみんなご近所さんのようになじんで座は暖かい空に包まれる。
「今年でちょうど五〇周年なんですよ。なにか記念の会でもやろうかっていう話もあるんだけど、おとうさんがあんましそういうの好きじゃなくてね。わたしは大好きなんだけど」
とおかみさん。なんでも三五周年の時には堀切菖蒲園の中にある静観亭で盛大に飲み会をやり、その時に飲んだ酒量の記録はいまだに破られてないそうだ。
一人の客が入ってくるなり、
「おい、看板の電気消えてるよ。電気代、払ってねえんじゃねえの?」
こりゃ大変、とおやじさんがとんで行く。
厨房をあずかる息子さんが作るツマミも家庭の味で、卯の花、塩辛、煮込み、コロッケ……みんな自家製でおいしい。画伯はボールのグラスを重ねる。
「あれ、おやじさんが新しいメニューを書いているよ。えっ!ポーク・カレー・ルー?」
驚く画伯に、おやじさん、
「ポーク・カレーだよ。ライスがないから、ルー。ちょうどできたてだよ」
さっそく味見した画伯によれば、かなり辛口で焼酎ハイボールのお供にもよく合うという。居酒屋のツマミにカレーというのはあまり聞かない話だが、そういうところも「喜楽」は、常連客にとっては家庭の延長なのだろう。
「昔はこのあたり、ちょっと雨が降るとすぐ水に浸ってね。みんな履物を上に上げて、それでも飲んでるんですよ」
そう言うおかみさんは来し方の半世紀に思いを馳せる顔になる。開店の時は一八歳だった。
「おとうさんは二二歳で、『店をやるから、ちょっと手伝ってくれ』っていうのがプロポーズだったんですよ。新婚旅行にも行かなかったし」
ごちそうさま、と画伯がおやじさんを見やれば、知らぬ顔の半兵衛を決め込んで、新しい客に声を張り上げる。
「らっしゃい!」