「寒くなったねえ。今回はあんこう鍋を食べさせる店だって。体が温まりそう」
と大竹画伯は背中を丸めて総武線平井駅に降り立った。蔵前橋通り沿いの大衆酒場「豊田屋」は昭和四六年以来ずっとあんこう鍋や白子鍋を出す居酒屋として多くのファンを集めてきた。
「九月から四月まで鍋を出します。朝五時半に家を出て築地で仕入れ。あんこうは北海道産が一番だ。うちでは肝も湯通しせず生で鍋に入れます。ぜんぜん旨さが違いますよ」
とご主人は大きなあんこうをぶら下げて見せてくれた。一見ゴツいが、表情に愛嬌がある。さっそく画伯はあんこう鍋を注文。飲み物はスクイーズという搾った生グレープフルーツに焼酎を加えたもの。飲み口がよすぎて飲みすぎにご注意、とご主人。
四時半の開店と同時に十三席のカウンターと四つのテーブルがいっぱいになる。奥の狭い小あがりに十人もが肩を寄せ合って鍋をつつくこともあるそうだ。当然、芸能人や政治家も来る。でも、満杯のときはどんな有名人も坐れない。
あんこう、白子のみならず、鍋は全部で十種類。どじょう鍋以外は九月から四月まで。それからはご主人の奥さんの故郷・福島県の山菜がメインとなる。
「うわっ、あんこうの肉と肝が鍋からあふれそう。こんなにてんこもりで一人前一三五〇円は安いぜ」
と画伯は舌なめずりしながらスケッチに忙しい。ほとんどの客が鍋を注文している。ご主人がほどよく鍋の具を返して、はい、どうぞ。
「旨い、旨い、これは旨い」
画伯はアンキモを目標に攻めたてる。肉もプリプリしてコラーゲンたっぷりという感じ。たしかに体がぽかぽかと温まる。飲み物を焼酎ハイボールにする。白と黄色があって、黄色は梅エキス入り。
「これ、食べてみて。自家製だよ」
と出してくれたイカの塩辛がまた絶品。新鮮なイカとワタが適度に混ざって塩辛くなく、旨みが全開だ。画伯は食べ終わると皿をペロリとなめた。
「うちはなんでも自家製なんですよ。白菜漬もツミレも」
この店では働き者のご主人と奥さんに加えて息子さんも店を仕切っているから、毎日の細かい仕込みができる。それがまた客を呼ぶ。飲食店の王道だろう。
画伯はさらに白子鍋(九〇〇円)も注文。これまた鍋から溢れんばかりの盛りのよさ。スケソウダラの白子も寒くなってから本当に白くなって、旨さが増す。
鍋が煮えるまで、豊後鯵の刺身(六〇〇円)をいただく。これまた立派な鯵で、築地で仕入れを担当する若い二代目の目の確かさがわかる。
「日本にしかない刺身や鍋料理、日本にしかない旨い焼酎。いやいや日本人に生まれたしあわせを今日はまた実感しました」
白子鍋をあっという間に平らげた画伯は、殊勝な顔でそう言う。たしかにこの店にはそう言わせる力がある。三十五年間、あんこうをさばきつづけてきたご主人の顔が、酔眼に極上のあんこうに似て見えてきた。
- ※ 2007.1.4 · 11 週刊文春 掲載分
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